Diorの歴史|京都のデリヘル求人

店長ブログ 未経験者の方でも大歓迎 キャンペーン情報や耳寄りな情報が手に入るかも!
要チェック♪

Diorの歴史

08/06 19:02

クリスチャン・ディオールが生まれたのは、フランス北部・ノルマンディー地方にある港町、グランヴィルです。


クリスチャン・ディオール


ここで、5人兄弟の2番目として生まれました。


ブルジョワ階級のとても裕福な家庭で、伯父は大臣経験者、父は肥料の事業で成功した実業家。


そんなお金持ちの家族の中で、クリスチャンは何不自由なく成長しました。


良家の両親らしく、子供たちには厳格な教育をほどこしていたといいます。


そして、父親はクリスチャンに、外交官になってほしいと願っていました。


しかし、クリスチャンは政治や外交に関心がなく、その代わりにアートにとても興味を持っていました。


幼い頃から既に好奇心の塊で、またデッサンが趣味でした。


町で行われるカーニバルの様子や、ファッションのスケッチをしながら過ごすことを好みました。


彼の芸術への高い関心は止むことがなく、いつしか父親の望む進路とは全く違う道を歩きたいと思うようになりました。


そして、実際に美術学校に入学したいと願い出たのですが、両親の猛烈な反対に遭い、やむを得ず進学を諦めます。


両親と何とか折り合いをつけ、学生になるまでは我慢することが多かったようです。


しかし、両親の希望通りに政治専門学校に進学すると彼の芸術への情熱はますます高まります。


学生時代の彼は勉強を殆どせず、結局カフェで知り合った芸術仲間との交友に明け暮れて過ごしました。


クリスチャン・ディオールは両親の意向をくみ、政治専門学校に入学しましたが、将来を丸っきり諦めて両親の言いなりになるつもりはありませんでした。


クリスチャン・ディオール


ディオールの性格は非常に温厚で内向的で、人と言い争いができない性質なのです。


ですから、その場を丸く収めただけで、その後は引き続きブルジョワ的道楽を続けていました。


そしてそのうちに、親に自分の享楽に生きた生活を隠しきれなくなります。


当然ながら、厳格な両親は息子の趣味に反対し、芸術活動への夢を何とかあきらめるように諭します。


しかし、親に対して真っ向から立ち向かう気質ではなかったディオールにとって、親の期待に添えられないことが、どんどん大きな悩みになっていきました。


この時代、芸術というのは単なる娯楽で、絵画やファッションデザインは御用商人の仕事とされていました。


当時の扱いでは、芸術活動は二流の職業であったといえるでしょう。


ですから、この時代の良家の親が、子供がそのような仕事で生活の糧を得ることに反対するのは、ごく当然のことだったのです。


両親には、ほかにも悩みがありました。


長男のレイモンもまた前衛的思考の持ち主で、まっとうに自分のビジネスと向き合わず、ディオールの弟、三男のベルナールは精神が病み、精神病院に送られることになったのです。


こうした状況の中、ディオールは将来の仕事として親に妥協案を提示します。


クリスチャン・ディオールに、画廊経営の話を持ちかけた友人がいました。


画廊


ジャック・ボンジャンという人物です。


後に永遠の友情で結ばれることになる彼らですが、彼らの画廊のために出資をしたのは、ディオールの父親です。


ディオールは自ら芸術活動をすることを夢見ていましたが、両親の手前ではどうしてもその夢が叶いそうにありませんでした。


それならば、せめて芸術家のバックアップをするような仕事をしたいと思ったのです。


ディオールの案に父親は渋々承知し、1928年、彼とそのビジネスパートナーは画廊をオープンします。


その画廊の名前は、「ジャック・ボンシャン画廊」。


ディオールの名前が画廊名に入っていないのは、彼の母・マドレーヌの強い希望によるものです。


母は、息子が商売で「ディオール」という名前を前面に出すことが許せませんでした。


温厚な彼は、愛する母の気持ちを受け入れ、商売では自分の名前をあまり表に出さないようにしたのです。


それでも、「ジャック・ボンジャン画廊」の共同経営者として彼はその手腕を発揮して、大成功を収めます。


彼らには様々なアイデアがあり、シーズンごとに新たなコンセプトの展覧会を開きました。


これらが好評を博し、美術雑誌でも高く評価されたのです。


しかし、彼らの画廊経営は、たった4年で行き詰ります。


世界恐慌の煽りを受け、1931年には経営を断念せざるを得なくなったのです。


クリスチャン・ディオールは画廊経営で破産し、家も差し押さえられ、その後暫くホームレス生活を余儀なくされました。


公園


それは、お金持ちのボンボンとして生まれ育った彼にとって、初めての大きな試練です。


ただ、ホームレスといっても、寝るところはいつも何とかなりました。


親しい友人の誰もが彼を気遣い、また彼らはディオールの人柄が大好きだったので、一晩なら眠る場所や食料を提供してくれたのです。


彼は優しい友人たちのおかげで、どうにか生き延びることができました。


別の友人は、彼や彼のホームレスの友人のために屋根裏部屋を見つけてきてくれて、とりあえず彼は寝るところを確保できました。


そこは決して居心地のいい場所ではありませんでしたが、ホームレスのディオールにとって、友人たちと談笑する場所さえあれば、当時は十分だったのです。


しかし、彼には更なる不幸が起こります。


結核にかかったのです。


お金がないとはいえ、治療をしなければなりません。


ここでも友人たちが僅かなお金を出し合って、彼に治療を受けさせることになりました。


ディオールは、物価がパリよりも安いスペインのイビザ島に移住し、そこで1年間の療養期間を過ごしました。


イビザではパリの仲間から離れ、初めて孤独と対峙することになったのですが、そのことが却って真剣に将来を見つめ直す良いきっかけになったようです。


ホームレス生活、そして病を経験した彼は成長し、パリに戻ります。


パリに戻ったクリスチャン・ディオールは、もう道楽息子として生きるつもりはありませんでした。


パリ


もっとも、彼自身が破産し、彼の父親も世界恐慌で全財産を失い、贅沢三昧に戻れるはずもなかったのです。


彼は毎日求人広告を片っ端から当たり、手に職を得ようと走り回りました。


しかし、どこも失業者で溢れている中、簡単に仕事は見つかりません。


次第に彼はやけになり、就職活動を投げ出したい、という衝動にかられるようになりました。


そんな中、結核の時のように、またもや救世主が現れます。


友人クリスチャン・ベラールの従兄弟でデッサン画家のジャン・オセンヌが、自分のアパルトマンをディオールに提供してくれたのです。


その時、デッサン画1枚でかなりの収益を得ていたオセンヌを真似て、ディオールはデッサンで稼げるように彼の下で修業を積むことにしました。


ディオールはこの時、基本的なデッサンの描き方や色彩に関する勉強、またファッションデザインに関する勉強をし、徐々にその努力が報われ、デッサンでお金を稼ぐことができるようになっていきました。


ディオールのデッサン画を買い取ったのは、スキャパレリ、バレンシアガ、ジャン・パトゥなどの一流メゾンです。


彼は長年ホームレス生活をし、知人宅で暮らしていました。


しかし、デッサン画家として成功し、まとまった収入ができたことで、ついに自分自身のアパルトマンを持ち、自立した生活を始めたのです。


今日はこのあたりにしておきます。


次回はもっと深くまで進んでいきましょう。

TEL0120-010-300
MAILs19800504s@docomo.ne.jp
LINE
×

簡単LINE応募

LINE QR

上記QRコードか、
IDを検索して応募して下さい → 「s19800504s」

お気軽にLINEでお問い合わせ下さい

× 閉じる