Diorの歴史Ⅱ |京都のデリヘル求人

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Diorの歴史Ⅱ 

08/13 03:11

今回はもっと深くまで進んでいきましょう。


駆け出しのクチュリエとして



デッサン画が次々に売れるようになり、多くのクチュリエを顧客に抱えるようになったディオールのもとに、ついにデザイナーになるチャンスが訪れます。


ロベール・ピケ

 


これこそ、彼が待っていたチャンスに違いありません。


彼は既に、数年間ファッションデッサン画家として働き、いかに女性を美しく見せるかを熟知していました。


こうして彼の才能は開花し始め、1938年、ピケの元でクチュリエとしての最初の一歩を踏み出したのです。


それはファッション業界で本格的に働く初めての経験で、貴重な下積み期間になりました。


しかし、戦争が勃発した1939年9月、彼は徴兵され、暫くは兵士として過ごすことになりました。


とはいえ、農家での作業が中心だったので、穏やかな暮らしを好むディオールは、むしろ兵役を楽しんでいたようです。


しかし、1941年にパリに戻ると、既に彼のポストには別のデザイナーが雇われていました。


そこでまた彼のキャリアが途絶えるかと思いきや、今度はルシアン・ルロンのメゾンで職を見つけ、働くことができるようになりました。


しかし、アシスタントデザイナーという立場で数年働き、彼は次第に「一生アシスタントのままなのか・・・」という疑問を持つようになり、自立を模索するようになります。


戦争と衣服



第二次世界大戦は多くの人々の運命を左右しました。


クリスチャン・ディオール

そして、混沌とした街中を歩くクリスチャン・ディオールの運命も翻弄され、また戦争の中で、自分のあり方について大きな心の葛藤が生まれます。


戦争では全ての人が戦禍に怯え苦しみ、限られた物資の中でぎりぎり生活をし、享楽に浸る余裕もなく日々を凌ぎました。


そのような生活パターンは、女性のファッションを急激に変化させます。


優雅なロングスカートを履く女性はどこにも見当たりません。


布の配給量が限られていたので、自ずと女性たちの服装も簡素になっていったのです。


そして、そのほうが結果的に合理的だと気付けば、それまで暑苦しいドレスを着て窮屈な思いをしていた女性たちは、二度とドレスもコルセットも身に付けたくなくなるのは当然のことでしょう。


戦争は、女性たちの衣服への価値観を変えるきっかけになったのです。


そして、衣服を生み出すディオールも、自分が何を作ればいいのか、考え直す時期に来ました。


彼はお金持ちの出身ですから、本物の贅沢を知っています。


また、多くの芸術家仲間に囲まれながら、自らの芸術に対する感性を磨いてきたので、譲れない美学もあります。


彼は女性の服をデザインするとき、合理性・機能性よりも理想的な美しさを求めてきました。


そして、これから先、本当にそのままでいいのか、じっくり考えなくてはなりませんでした。


メゾン「クリスチャン・ディオール」創設へ



クリスチャン・ディオールが将来の自分を思い描く中で、「独立」というものに対する構想が徐々に形成されていきます。


クリスチャン・ディオールのロゴ

ルシアン・ルロンのメゾンに所属する友人、ピエール・バルマンは既に自身のメゾン「ピエール・バルマン」を設立していました。


ディオールが、自分の思い描くデザインを形にするために、自身のアトリエを持ちたいと思う気持ちは当然のことでしょう。


この夢を叶えてくれたのは、フランスの大富豪で「コットン王」の異名を持つ、マルセル・ブサックです。


ブサックの右腕として働く紡績工業組合会長アンリ・ファーヨルの妻が、ディオールのデザインを気に入っていたことから、ディオールはブサックに対面するチャンスに恵まれました。


そして、自分が思い描くメゾンについて、説明したのです。


それは、俗っぽいファッションが主流になってきた時代の中で、やはり美しいものを作り続けたいと願う気持ちが表れたものでした。


彼は、本物のエレガンスを身にまとう貴婦人のためだけの小さなアトリエを作りたかったのです。


幸運なことに、ブサックとディオールは、様々な価値観を供する、気の合う物同士であることがわかりました。


ブサックはディオールに出資を約束します。


こうして、戦後間もない1946年12月16日、メゾン「クリスチャン・ディオール」が誕生したのです。


「ニュー・ルック」の旋風



メゾン「クリスチャン・ディオール」がオープンしたおよそ2カ月後の1947年2月12日、初めてディオールのコレクションが発表されました。


ニュー・ルック

ディオールが名付けたコレクション名は「花冠」。


後に「ニュー・ルック」と呼ばれるようになり、世界に一大旋風を巻き起こします。


「ニュー・ルック」は、戦争で完全に失われてしまったフランスのモードを完全に取り戻すものでした。


グラマラスなバストラインとくびれたウエストを強調したフェミニンなラインで、スカートのシルエットはふんわりし、丈は長めです。


ディオールが提案した新しいスタイルは、ボックス型のジャケットに短い丈のスカートに収まっていた女性たちを野暮ったく見せるようなものでした。


戦争後で物資が不足する中で、ディオールのエレガントなスタイルは、あくまで貴婦人のためだけに提案されたこともあり、物議を醸しました。


お金のない女性たちはディオールの服を身にまとう女性を攻撃し、街中で頻繁に暴力沙汰が起きていたとも言われています。


しかし「モード」という点でディオールが新たな時代築いたことは事実であり、特にアメリカのファッション誌では絶賛されました。


ファッションショーを開く前、ディオールは自分のスタイルが受け入れられるかどうか、自信がありませんでした。


しかし、このコレクションを境に、自分の直感のみを信じ、次々に新しいスタイルを提案していきます。


更なる成功



クリスチャン・ディオールが提案したものは、エレガントな時代への回帰を表した作品でした。


ニュー・ルック

それが「ニュー・ルック」として受け入れられ、バイヤーたちが躍起になってディオールの服を買い求めることになったのです。


アメリカにはモードは存在しましたが、モードの都は紛れもなくパリでした。


そして、パリのモードが戦争の傷跡から復活すると、バイヤーたちがディオールのニュー・ルックを手に入れようとはるばる海を渡ってくるようになったのです。


ディオールの小さなアトリエは、すぐに手狭になりました。


そこで、彼はブサックに新たな場所の確保を申し出て、2つの仮アトリエを手に入れました。


場所を拡張して、従来の顧客とバイヤーを何とか受け入れていきました。


第一回コレクションに続き、1947年8月にはディオールの秋冬コレクションが発表されました。


このとき、ディオールは、「ニュー・ルック」を更に進化させ、より洗練されたスタイルを提案し、このコレクションもまた大成功を収めました。


この時代、彼の「ニュー・ルック」は、すっかり世界のモードの中心にありました。


ディオールのスタイルは、戦後モードの大革命という位置づけになったのです。


1947年、彼はアメリカで「オスカー・ドゥ・ラ・クチュール」賞を受賞し、アメリカに渡りました。


その時、熱狂的な歓迎を受けたことで、ディオールは自分の方向性に更なる確信を深めます。


ライバル・シャネル



クリスチャン・ディオールが女性らしいシルエットで新世代のモードを確立した頃、その光景を妬ましく眺めていた一人のデザイナーがいました。


ココ・シャネル

ココ・シャネルです。


ディオールがデビューした当時、シャネルは戦時中、ドイツ軍将校と愛人関係にあったことなどから、スイスで亡命生活を送っていました。


ココ・シャネルは1883年に、貧しい家庭で生まれました。


幼い頃に母親と死別し、父親からは愛されることなく、孤児院で育ちました。


そのような生い立ちから、彼女は何よりも貧乏を嫌い、自分の力で成功してみせるという強い意思があったのです。


シャネルの示したスタイルは、女性をコルセットから解放し、マニッシュで動きやすいものでした。


そしてそれは、ただのお飾りとして存在した女性を目覚めさせ、自立に導く力強いメッセージと共に発信されました。


シャネルのスタイルはセンセーショナルで時代の最先端を行くものになりましたが、第二次大戦を経て、心地よさだけを求めた衣類はかえって野暮ったいものに映るようになりました。


ディオールがニュー・ルックを発表した時、シャネルは「あんなのダメじゃない!」と遠いスイスから怒りをあらわにしたといいます。


彼女は後にモードの世界にもカムバックしますが、当時正反対のスタイルを提案していたココ・シャネルとクリスチャン・ディオールは、その後も頻繁に比較されるようになったのです。


パルファン・クリスチャン・ディオール



クリスチャン・ディオールが数々の香水やコスメラインで成功していることは現在広く知られていますが、ディオールにとって、香水とは女性には欠かせない必須アイテムでした。


香水

女性を演出するために、女性に相応しい香水を作らなくてはならない、と考えた彼は、香水事業にも力を注いでいきます。


ディオールは、オートクチュールと香水事業分けて管理することで、事業の円滑化を図ろうとしました。


このような経緯で1948年に設立されたのが、香水やビューティラインに特化した会社「パルファン・クリスチャン・ディオール」です。


ディオールが初めて香水をリリースしたのはその前年の1947年、この年に、「Miss. Dior」が発売されました。


そして「パルファン・クリスチャン・ディオール」設立後に香水事業はそちらが引き継ぎ、1949年に「ディオラマ」、1956年に「ディオリッシモ」が発売されます。


ディオールはあるインタビューで、「女性らしさを完全に表現するために、香水は欠かせないもの。画家が絵画を仕上げ、最後にサインをする時のような瞬間」と話しています。


「パルファン」の方の事業もまた大成功を収め、ディオール亡き後も、「プワゾン」(1985年リリース)、「デューン」(1991年)、「ドルチェ・ヴィータ」(1995年)、そして「ジャドール」(1999年)と次々にヒット商品を生み出していきます。


アメリカ進出とライセンス事業



クリスチャン・ディオールの最も大きな成功は、ヨーロッパよりもアメリカで顕著に見られました。


自由の女神

フランス流エレガンスに憧れるアメリカ人女性の心を掴んだのです。


そして、ディオールの顧客のうち約半数をアメリカ人が占めました。


ディオールとしては、何とかアメリカで更なる成功を手にしたいものです。


彼は、デザイナーとして一流の腕を発揮するばかりでなく、実業家としても成功を収めることになります。


1947年にアメリカ旅行をする中で、「ライセンス事業」について徐々に構想を固めていたのです。


ディオールにとって、自分の生み出したモードが流行ることは結構なことでしたが、商品がコピーされることには耐えられませんでした。


では、どのようにすれば、商品価値を守ることができるのか?


この点について、彼はブサックらから、「ブランド名の登録」やその他の経営学的事柄を学びました。


更にディオール自身が自分の商品を守るために、特許権使用料の制度化に尽力しました。


当時、ビジネスにおいて二束のわらじ、つまり、デザイナー兼実業家、ということは考えられませんでした。


しかし、ディオールは人の力を借りながら、何とかそれを成し遂げたのです。


ディオールこそ、ファッションの産業化に貢献した人物といえるでしょう。


そして、ファッション業界におけるライセンス事業のモデルを確立し、アメリカでも莫大な利益を上げることになります。


事業のマニュアル化



クリスチャン・ディオールは、会社設立当時から経営に関するあらゆるノウハウを独自にまとめていました。


マニュアル

ディオールは、ブサックからの「会社経営」というものを学び、それを更に彼なりの解釈に置き換え、ディオール社に完璧なシステムを導入しました。


彼は、「企業イメージ」「社内規則」をなどが盛り込まれた新しい財政管理法を構築し、それを詳細にまとめ上げました。


クチュリエとしてだけでなく、実業家としても成功した彼は、その成功の秘訣をライバル社に知られたくないとは考えなかったのでしょうか?


彼はむしろ、自分の経営知識を披露することで、後身育成を実現していこうと考えていました。


彼は自分のブランドに対するイメージや経営哲学を人々に知ってもらうために、頻繁に講演会を行いました。


そしてその中で、「クチュールの二大機能」とは、


1. 職人的仕事の擁護


2. 生活水準向上のため、才能ある人を生かす方法を見つけること


と説きました。


彼はまた、2冊の著書も発表しています。


1冊目は1951年に、そして2冊目は1956年に発売され、特に2冊目には彼の経営哲学や価値観が全て書かれていて、後身デザイナーにとっては有り難い経営ヒントが満載の1冊になりました。


このようなディオールの実業家としての努力があり、ディオールの死後も会社が滞ることなく、円滑な経営が続いていったのです。


ロジェ・ヴィヴィエとディオール



ファッションをより輝かせるために、足元のお洒落は欠かせません。


世界にはクリスチャン・ルブタンやジミー・チュウなどのエレガントな靴を作る職人がいて、彼らは美しい靴を作り続けています。


クリスチャン・ディオールにとっても、靴はコーディネートで最も重要なパートでした。


ロジェ・ヴィヴィエ

そして、ディオールの理想とする靴を作り、ディオールブランドからシューズラインを発表したのがロジェ・ヴィヴィエです。


ディオールと出会った当時のヴィヴィエは、帽子を作っていました。


「ニュー・ルック」によるディオールの成功にヴィヴィエは興味を持ち、ディオールとの会食が実現したのですが、ディオールは彼の作る帽子にはあまり興味をそそられないようでした。


しかし、オートクチュールの仲間たちがディオールとヴィヴィエの間を取り持ち、ヴィヴィエはディオールの専属靴職人の地位を得たのです。


ヴィヴィエの靴は彫刻のように繊細な作りをしていてとてもエレガントで、彼は英国の女王・エリザベス2世の戴冠式の靴のデザインも手がけました。


1953年、クリスチャン・ディオールからヴィヴィエが指揮を執った靴専門店「クリスチャン・ディオール S.A.R.L.」が設立されます。


ディオールのアトリエとは隣同士の立地です。


ヴィヴィエの靴はディオールのコレクションの中でも登場し、ディオールとヴィヴィエは黄金のクチュールコラボを実現し続けていきます。


シルエットの変化



クリスチャン・ディオールは、自身が理想とする女性像を次々にファッションに反映していきました。


ベル・エポック

彼にとっての理想形は、フランスで「古き良き時代」と言われる、ベル・エポックの時代(19世紀末から20世紀初頭)にインスパイアされたものです。


ですから、彼のスタイルの原点は、古いものを戦後のニーズに合わせてリニューアルしたもの、といえるでしょう。


彼は、次々に新しいスタイルを発表し、その都度、センセーションを巻き起こしました。


1954年頃まで、彼は「ニュールック」を応用して、更に進化させたスタイルを次々に提案します。


1952年に、彼はロング丈スカートを一気に40cm短くした新作スカートを発表、その後、1953年には全体的にふんわりとした「チューリップライン」を発表しました。


そしてその後、ウェストを絞った「ニュールック」をやめ、新しいスタイルに以降していきます。


1954年以降のディオールは、もっとウェストをゆったりとしたラインにシフトしました。


それでも、基本的な「エレガンス」「女性らしさ」という視点は変わりません。


1954年にはウェストをすっきりさせた「Hライン」、1955年には上から下にかけてのシルエットが広がる「Aライン」と、スカートラインをすっきりさせた「Yライン」を発表し、これらもまたファッションの世界で賞賛されることになりました。


弟子・イヴ・サンローラン



1955年、クリスチャン・ディオールは、19歳の新人デザイナーを雇い入れました。


イヴ・サンローラン

イヴ・サンローランです。


サンローランは、ディオールの一番弟子にして唯一の弟子になりました。


当時のサンローランは、「シャンブル・サンディカ・ファッションスクール」を出たばかりで、ファッションデザインコンテストのドレス部門で優勝をしていました。


とはいえ、まだデザイナーとしては無名です。


ディオールは、早くから彼の才能に目をつけ、彼を雇い入れたのです。


彼がディオールに加わった最初の年、ディオールは彼に単純なスタジオのデコレーションやアクセサリーデザインばかりを担当させていました。


やがて、ディオールは彼にスケッチをすることを許可し、徐々に彼に自由を与えていきます。


1957年には、ディオールのファッションショーで、サンローランのスケッチが35点も採用されました。


このことが、サンローランのキャリアに弾みをつけます。


ところで、ディオールがサンローランを雇った直後、彼はサンローランの母親に会って、「僕はあなたの息子を立派に成功させるために雇いました」と伝えました。


当時、ディオールはまだ52歳の若さで、母親は何故、彼がそんなことを言うのか、理解できませんでした。


しかし、その2年後、ディオールは心臓発作で急逝します。


1955年当時のディオールは、無名のサンローランを既に後継者に見据えていたのかもしれません。


ディオール、突然の死



1957年、メゾン「クリスチャン・ディオール」は10周年を迎えました。


クリスチャン・ディオール

10年間、彼のドレスは売れ続け、いちメゾンを立派な企業に成長させたのです。


この業績を誰もが称え、アメリカの経済有力紙「TIME」はクチュリエであるディオールをカバーに選出しました。


しかし実はその陰で、ディオールの体調はどんどん悪化していました。


彼は、太り気味の傾向にありました。


それは、不摂生によるものです。


大の美食家で、医者からは頻繁に摂生するように注意されていました。


しかし、企業が大きくなればなるほど彼はストレスから逃れられなくなり、暴飲暴食に走ることを止められなくなっていたのです。


気がつけば、肝臓にかなりの負担をかけ、生きるためにダイエットが必要になっていました。


彼は、10周年を境に、本気でダイエットに取り組む決心をしました。


但し、それでは少し遅すぎたようです。


1957年10月23日、イタリアの保養地・モンティカティーニで、彼は就寝前、椅子に座ったまま、ひっそりと息を引き取りました。


すぐに医者が呼ばれましたが、もう手遅れでした。


このディオールの突然の死に、彼のメゾンを愛する者だけでなく、世界中に衝撃をもたらしました。


彼の遺体は数日後、メゾン「ディオール」設立に出資したマルセル・ブサックによりイタリアからフランスに運び出され、現在、彼は、彼が愛したカリアンの地で永眠しています。


ディオールの死後



天才クチュリエ、クリスチャン・ディオールの突然の死に、彼の周りにいた全員がパニックになりました。


クリスチャン・ディオール

彼はメゾンで働く人全てを家族のように労わり、惜しみない愛を与えていました。


そのため、彼の葬儀では、誰もが憔悴し、茫然とし、涙で咽びかえりました。


彼の棺を、彼の仲間や家族だけでなく、ライバルといわれたバレンシアガ、バルマンらクチュリエたちまでもが囲み、悲しみに暮れました。


そして、ビジネスの世界では、出資者マルセル・ブサックの動向に注目が集まります。


彼は、今後メゾン・ディオールを継続するのか?


そうでないとすれば、一体どうするのか?


実はディオールは、10周年を迎えた時点で、後継者を若きイヴ・サンローランに決めていました。


クチュリエとして、また、いち企業社長として、彼自身があまりに多忙で疲れ果てていたのです。


ですから、そろそろ引退をし、メゾンをほかの人に任せたいと考えていました。


彼の中で、サンローランの才能はずば抜けていました。


そこで、彼は未来のメゾンに向けて経営ノウハウをまとめ、遺言をしたためました。


サンローランと同じくディオールが注目していた若きクチュリエ、マルク・ボアンにもニューヨーク支店を任せるように考えていました。


ディオールのこうした事前の準備により、企業としてのディオールは、偉大なる主を失ったにも関わらず、その後も順調に経営が続くことになったのです。


 


こっれがあの偉大なるクリスチャン・ディオールの歴史です。


僕もかなりディオールに憧れています。


今日も長い文章を読んでいただきありがとうございました。


 















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